グリム兄弟が作ったグリム童話にある「ハーメルンの笛吹き男」。
これは、ただの童話ではなく1284年に実際に遭った130人の子どもの失踪事件をもとにつくられているそうです。では、実際に遭った失踪事件とは、どういう事件だったのでしょうか?
目次
そもそもハーメルンの笛吹き男はどういう話なのか?
ハーメルンの笛吹き男はグリム童話の中でもそこそこ有名な話で、誰しも一度は聞いたことがあると思います。
ストーリー
1284年、ハーメルンの街では、ネズミが大量発生して、畑の作物を食い荒らしたり、街のあらゆるところに出没して住民を困らせていました。
ある日、街に笛を持った男が現れ、「報酬をくれるなら、皆を困らせている街のネズミを退治して見せましょう!」と言いました。ハーメルンの人は男に報酬を上げると約束をしたので、男は笛を吹きはじめます。笛の音を聞いて、街中のネズミが集まってきました。男の後にネズミたちが付いていきます。男はヴェーザー川にネズミと共に歩いていき、笛の音を鳴らすと、ネズミは次々と川に飛び込んで溺死してしまいました。
ネズミ退治が終わって男が報酬を要求すると、街の人は約束を破り報酬を払いませんでした。
男は一旦ハーメルンの街から姿を消しましたが、6月26日に再び街に現れました。男が笛を吹きながら通りを歩いていると、家から子供たちが次々と出てきて、男の後についていきます。130人の子どもたちは、男の後についていき、そのまま町を出ていきました。そうして、二度と戻っては来ませんでした。
1300年ごろにつくられたステンドグラスにハーメルンの笛吹き男に関する記述が記されていた
ハーメルンの笛吹き男の史実をもとにつくられたステンドグラスには、下記のような記述がありました。
1284年、聖ヨハネとパウロの記念日、6月の26日。
色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に、130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され、コッペン近くの処刑の場所でいなくなった。(引用:wikipedia)
このステンドグラスは、1660年に破壊されてしまい、現物は残っていないそうです。現在のものは、元のステンドグラスを再現したものだそうです。
事件の後に音楽や踊りを禁止する法律が整備された
この事件の後に、深い悲しみに暮れる住民のために、街では音楽や踊りを禁止する法律が出来たそうです。
そして、なんと現在もハーメルン市では、この130人の子供達が通ったとされる通りは「ブンゲローゼシュトラーセ(Bungelosenstraße)=舞楽禁制通り」と言って、 音楽を奏でたり、踊ったりする事が禁止されています。結婚式などのお祝い事の行進の際も、この通りは避けられるとのこと。
<舞楽禁制通り地図>
ドイツ料理店の西側の小通りです。地図の倍率を上げると「Bungelosenstraße」という文字が見えてきます。
1500年ごろにはすでにこの名前が付けられていたそうで、舞楽禁止の歴史は500年以上も長きにわたって続いています。住民の悲しみの深さが伺えますね。
不可解な点
実はハーメルンの街の記録はこの130人の子どもの失踪事件が最古のもので、それ以前のものについては残っていないそうです。街の歴史の始まりが失踪事件からだなんてとても悲劇的な街ですよね。
それゆえ、この失踪事件を起点として歴史がつづられているそうです。
我らの子供達が連れ去られてから10年が過ぎた。(引用:wikipedia)
不思議なのは、1284年6月26日や130人の子どもという具体的な数字が残されているのにもかかわらず、なぜ子どもたちがいなくなったのかはっきりしたことが分からないということです。
そのため、この事件の謎を解こうといろんな解釈やいろんな説が唱えられるようになりました。
いくつもの説
子どもたちがハンチントン舞踏病だったという説
「ハンチントン舞踏病」というのは、自分の意志ではなく体が動いてしまう病気で、子どもたちが「踊りながら」街を出て行ったことから、この説が唱えられるようになりました。しかし、ハンチントン舞踏病は大人になってからの発症率が高いことや、遺伝性の病気で、街の子どもたち130人が全員この病気にかかっていたという説は無理があるような気がします。
子どもたちが疫病にかかっていたという説
疫病(伝染病)にかかり、多くの子どもがなくなった、また患っていた子どもたちを隔離するために連れて行ったという説です。この場合、笛吹き男は、死神もしくは医者であったと解釈されます。疫病にかかり子どもたちがなくなったのを、死神(笛吹き男)が連れて行ったと表現するのもあり得無くはなさそうです。実際に「ネズミが大量発生した = 衛生環境が悪く疫病が発生しやすい状態であった」とも読み取れます。
しかし、笛吹き男の「笛」が何を意味しているのかは謎のままです。
少年十字軍へ連れていかれた説
ドイツでも説教師に煽られた少年たちが少年十字軍として進軍したことからこの説が唱えられるようになりました。この説は18世紀から20世紀後半までもっとも信じられていた説です。この場合、笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと解釈されています。
実際に、少年十字軍として参加した少年少女たちは、悪い大人に奴隷として売られたり、戦地にたどり着く前に亡くなるなど、ほとんどが故郷に戻ることなく死んでいることから、「子どもたちが戻ってこなかった」というストーリーの部分と史実に一致が見られます。
しかし、少年十字軍自体は、この事件のやや前(1212年ごろ)なので、時期としてはズレが見られます。
現在、最も支持されているのは、開拓者となるべく自らハーメルンを出て行った説
現在、最も支持されている説は、少年少女らが自ら東ヨーロッパ植民地の開拓者となるべくハーメルンの街を出て行ったという説です。当時のドイツは人口過多状態で、長男のみが土地や財産をすべて相続することから(昔の日本のようですね)、それ以外の子どもは農奴になるしかありませんでした。自身で財産を築くべく、新天地を求めて自らの意思で出て行ったのではないか、そう考えると辻褄が合いますね。笛の音は開拓者のリーダーからの合図だったと読み取れます。
東方植民が行われたのが12世紀~14世紀で、押し勧められた時期とも一致しています。また、ハーメルンと東方植民地周辺の地域に同じ地名(出て言った若者が自らの出身地を付けた?)が見られるなど、関連性が見られることから、現在はこの説が最も有力であると考えられています。
まとめ
新天地を求めて出て行った若者たちとは裏腹に、子どもに去られた親たちの深い悲しみが悲劇として歴史に残されることになったのかもしれません。
ハーメルンのステンドグラスは復元されたものが現在の「マルクト教会」で見ることが出来ます。
ハーメルン市に観光に行かれる際はチェックしてみてくださいね。
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